うれしければ、うれしいです。
うれしくなければ、うれしくありません。
自分の心に正直に言葉を選んで、相手に伝える。
人間として生きてゆくうえでは、それがあたりまえで、それでいいのでは
ないかと思う。
現代人は、そういうことを難しく考えていないだろうか?
こんなことを言ったら、相手に不快感を与えるからとか、失礼だとか。
礼という語の意味は、思いやりを行動で示すこと。
思いやりというのは、人間が親兄弟家族に対して本来もっている心。
子供が成長する過程で育つ心を世間に向けたときその心を思いやりと
いうのでは、ないでしょうか?
心にないことを、あるかのように相手に伝えることの方が、
実は失礼なのではないかと、自分は、そう考えて生きてきました。
2011年7月16日土曜日
2011年7月14日木曜日
教育に関して。
いま、今市で中学生の学習支援をしています、
だからというわけではないですが、
人間として、どう生きて行くべきか、考えさせることが大切な気がしています。
それに反して、知識の詰め込みばかりが、教育として行われているのが、現状出はないでしょうか?
人間としてという話しは、孔子の思想の得意分野のような気がします。
儒教という言葉を使うと、それは、宗教になってしまいますが、論語という言葉を使えば、哲学になるのではないでしょうか?
孔子が言っている思いやりの思想は、今の人間社会にも通用するのではないかと思います。
また、時間があれば、他の漢文にも挑戦したいな。
----- コメント den256
考えて得た答えを言葉にして、人に伝えようとするから宗教になってしまうんだ。考えることが大切で、答えは、ひとりひとり違う。特定の思想や宗教が必要なのではなく、哲学こそ必要なのでは?まぁ、それもひとつの答えで、ひとりひとり違うんだけど。
だからというわけではないですが、
人間として、どう生きて行くべきか、考えさせることが大切な気がしています。
それに反して、知識の詰め込みばかりが、教育として行われているのが、現状出はないでしょうか?
人間としてという話しは、孔子の思想の得意分野のような気がします。
儒教という言葉を使うと、それは、宗教になってしまいますが、論語という言葉を使えば、哲学になるのではないでしょうか?
孔子が言っている思いやりの思想は、今の人間社会にも通用するのではないかと思います。
また、時間があれば、他の漢文にも挑戦したいな。
----- コメント den256
考えて得た答えを言葉にして、人に伝えようとするから宗教になってしまうんだ。考えることが大切で、答えは、ひとりひとり違う。特定の思想や宗教が必要なのではなく、哲学こそ必要なのでは?まぁ、それもひとつの答えで、ひとりひとり違うんだけど。
2011年7月1日金曜日
躾について思うこと。
躾を wiki で調べると、説明が出てきます。
「人間または家畜の子供または大人が、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること。」
とあります。
じゃ、身を美しくという字は、どういう意味なのか?
と、思ったわけです。
OKWave でこんな質問をしてみました。
http://okwave.jp/qa/q6807749.html
「躾という言葉と、禅のお坊さんの立ち振る舞いが美しく感じられるということに関係はあるでしょうか?」
そうすると真っ先に、関係ないという意見が帰ってきたのですが、
しばらくするとこのような意見もいただきました。
-----------
躾
形直ければ、影おのずから正し
......<詳細は、上記リンクを参照のこと>
-----------
どちらかというと、上記の意見に私は賛成です。
といっても、躾は、イコール、禅というわけではありません。
昔、武士の時代、武士の立ち振る舞いにも、独特の美意識があったように
感じます。
私は、茶道を少し習ったこともあるのですが、茶道でも所作を決め、
それに従った動作を繰り返し覚えます。
何が言いたいのかというと、wiki の社会集団の規律や規範を
身につけさせるというよりも、その時代特有の人間としての美しさを
身につけさせることが躾なのではないかということです。
もちろん今は、武士の時代ではないし、みんなが禅をやっているわけでも
ないし、そうする必要もないのです。
しかし、個の時代には、躾は必要ないのか?
もちろん社会人になれば、各企業の規律や規範というものもあります。
学校でもルールがあります。
でも、現代のそういう規範に人間としての美意識はあるのでしょうか?
もう少し掘り下げると。(このブログは、単なるメモみたいな感覚なので、
忘れないようにメモしますが。)
昔は、といっても藤沢周平の書いている時代のころしか知りませんが。
ひとが自然とともに生きていた。そのころは、自然の移り変わりと
その風景とともに生きる自分たち人間の一生のはかなさに美を感じる
ことができたのではないか?そんな風に思うのです。
自分が最近思う、人間らしい生き方とは何か?という問い。
その問いは、この辺に行き着く気がします。
後は、その実践の問題かな?
「人間または家畜の子供または大人が、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること。」
とあります。
じゃ、身を美しくという字は、どういう意味なのか?
と、思ったわけです。
OKWave でこんな質問をしてみました。
http://okwave.jp/qa/q6807749.html
「躾という言葉と、禅のお坊さんの立ち振る舞いが美しく感じられるということに関係はあるでしょうか?」
そうすると真っ先に、関係ないという意見が帰ってきたのですが、
しばらくするとこのような意見もいただきました。
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躾
形直ければ、影おのずから正し
......<詳細は、上記リンクを参照のこと>
-----------
どちらかというと、上記の意見に私は賛成です。
といっても、躾は、イコール、禅というわけではありません。
昔、武士の時代、武士の立ち振る舞いにも、独特の美意識があったように
感じます。
私は、茶道を少し習ったこともあるのですが、茶道でも所作を決め、
それに従った動作を繰り返し覚えます。
何が言いたいのかというと、wiki の社会集団の規律や規範を
身につけさせるというよりも、その時代特有の人間としての美しさを
身につけさせることが躾なのではないかということです。
もちろん今は、武士の時代ではないし、みんなが禅をやっているわけでも
ないし、そうする必要もないのです。
しかし、個の時代には、躾は必要ないのか?
もちろん社会人になれば、各企業の規律や規範というものもあります。
学校でもルールがあります。
でも、現代のそういう規範に人間としての美意識はあるのでしょうか?
もう少し掘り下げると。(このブログは、単なるメモみたいな感覚なので、
忘れないようにメモしますが。)
昔は、といっても藤沢周平の書いている時代のころしか知りませんが。
ひとが自然とともに生きていた。そのころは、自然の移り変わりと
その風景とともに生きる自分たち人間の一生のはかなさに美を感じる
ことができたのではないか?そんな風に思うのです。
自分が最近思う、人間らしい生き方とは何か?という問い。
その問いは、この辺に行き着く気がします。
後は、その実践の問題かな?
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