2014年2月11日火曜日

なぜ子供達は虐め合うのか?

なぜ子供達は虐め合うのか?

子供だけの社会では、子供達だけで悪者を決めてしまう。

本当に悪いのは、弱いものをいじめること。

子供だからそれがわからない。

だから、教師が必要なんだ。

子供だけの社会は、残酷だ。

弱いものが弱いものをいじめる。

一番弱いものは、殺される。それは、生命を断つというよりも

人間としての死。

それは悲しいこと。子供の社会には、適切に大人が介入しなければならない。

2014年2月9日日曜日

ゲームの中毒性。

さっき甥っ子がゲームやらせてくれって言うから、iPad 貸してあげたんだけど

14時で終わりにしようね。って言ったけど、14時になっても終わらない。

ゲームを見ていると謎解きゲーム見たいで、なぞを解くのに夢中で

終わりそうにない。仕方ないから失敗したタイミングでそっとゲームを取り上げた。

そしたらすぐに止められた。

そうなんだ、ゲームの怖いところは、終わらせなきゃいけいないと分かっているのに

自分では止められないこと。

他人に介入されなければ、自分では、終わらせられない。

皆さんも子供がゲームをやってばかりでしょうがない時は、ゲームの流れを見て

いいタイミングでゲームを取り上げてあげましょう。

2014年2月8日土曜日

これからの日本の価値観。


この前、おさがめ会で話したんだけど、いまの時代は、価値観が変わりつつある時代だと

言われるという話。

勉強会に行ったりすると、お金に対する価値観が変わるとか、いろいろ聞く。

そこで自分も思ったのが、家族と言うか、尊敬される大人の男と言う価値観も

変わってくのかな?と言う話。

大まかな流れは、全体主義(家族主義)から個人主義へ価値観が変わってゆくと

思っている。

これまでは、尊敬される大人の男と言うのは、家族の長で家族を養っていて、

奥さんと二人で家族を支えているという形。子供がいて、子供は、お兄ちゃん、

お姉ちゃんを敬いましょうという世界。それはそれでとても賛成できる。

でも、それ以外に経済的に自立した大人。という価値観ができてきていると思う。

これまでは、会社(組織)に属していて、組織の一部として、役割を果たす。

そこで自分の意見とかは、関係無くて、組織をうまく運営することが正義。上司は、絶対。

それに反発しているのが最近の自由人たち。彼らは、組織には、属さない。

組織から独立して、自分のビジネスを持って、家族を養ってゆく。どこまで、この価値観が

広がってゆくか分からないけど、この話が正しいか分からないけど、とにかく

時代は、変化している。好きなドラッガーを引用すると、変化に対応するのではなく

変化を作りだすこと、それが生き残るためには、重要。とか。

2011年7月16日土曜日

うれしくないときは、うれしくないと言って下さい。

うれしければ、うれしいです。

うれしくなければ、うれしくありません。

自分の心に正直に言葉を選んで、相手に伝える。

人間として生きてゆくうえでは、それがあたりまえで、それでいいのでは

ないかと思う。

現代人は、そういうことを難しく考えていないだろうか?

こんなことを言ったら、相手に不快感を与えるからとか、失礼だとか。

礼という語の意味は、思いやりを行動で示すこと。

思いやりというのは、人間が親兄弟家族に対して本来もっている心。

子供が成長する過程で育つ心を世間に向けたときその心を思いやりと

いうのでは、ないでしょうか?

心にないことを、あるかのように相手に伝えることの方が、

実は失礼なのではないかと、自分は、そう考えて生きてきました。

2011年7月14日木曜日

教育に関して。

いま、今市で中学生の学習支援をしています、

だからというわけではないですが、

人間として、どう生きて行くべきか、考えさせることが大切な気がしています。

それに反して、知識の詰め込みばかりが、教育として行われているのが、現状出はないでしょうか?

人間としてという話しは、孔子の思想の得意分野のような気がします。

儒教という言葉を使うと、それは、宗教になってしまいますが、論語という言葉を使えば、哲学になるのではないでしょうか?

孔子が言っている思いやりの思想は、今の人間社会にも通用するのではないかと思います。

また、時間があれば、他の漢文にも挑戦したいな。

----- コメント den256

考えて得た答えを言葉にして、人に伝えようとするから宗教になってしまうんだ。考えることが大切で、答えは、ひとりひとり違う。特定の思想や宗教が必要なのではなく、哲学こそ必要なのでは?まぁ、それもひとつの答えで、ひとりひとり違うんだけど。

2011年7月1日金曜日

躾について思うこと。

躾を wiki で調べると、説明が出てきます。

「人間または家畜の子供または大人が、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること。」

とあります。

じゃ、身を美しくという字は、どういう意味なのか?

と、思ったわけです。

OKWave でこんな質問をしてみました。

http://okwave.jp/qa/q6807749.html


「躾という言葉と、禅のお坊さんの立ち振る舞いが美しく感じられるということに関係はあるでしょうか?」

そうすると真っ先に、関係ないという意見が帰ってきたのですが、

しばらくするとこのような意見もいただきました。

-----------

形直ければ、影おのずから正し
......<詳細は、上記リンクを参照のこと>
-----------

どちらかというと、上記の意見に私は賛成です。

といっても、躾は、イコール、禅というわけではありません。

昔、武士の時代、武士の立ち振る舞いにも、独特の美意識があったように

感じます。

私は、茶道を少し習ったこともあるのですが、茶道でも所作を決め、

それに従った動作を繰り返し覚えます。

何が言いたいのかというと、wiki の社会集団の規律や規範を

身につけさせるというよりも、その時代特有の人間としての美しさを

身につけさせることが躾なのではないかということです。

もちろん今は、武士の時代ではないし、みんなが禅をやっているわけでも

ないし、そうする必要もないのです。

しかし、個の時代には、躾は必要ないのか?

もちろん社会人になれば、各企業の規律や規範というものもあります。

学校でもルールがあります。

でも、現代のそういう規範に人間としての美意識はあるのでしょうか?

もう少し掘り下げると。(このブログは、単なるメモみたいな感覚なので、

忘れないようにメモしますが。)

昔は、といっても藤沢周平の書いている時代のころしか知りませんが。

ひとが自然とともに生きていた。そのころは、自然の移り変わりと

その風景とともに生きる自分たち人間の一生のはかなさに美を感じる

ことができたのではないか?そんな風に思うのです。

自分が最近思う、人間らしい生き方とは何か?という問い。

その問いは、この辺に行き着く気がします。

後は、その実践の問題かな?

2011年6月25日土曜日

Twitter について思うこと。

Twitter を使い始めて、もう2年くらいになるのでは、ないだろうか?

「仕事おわた。」←このつぶやきを見て、あっ!これおもしろい!と

思って、すぐにアカウントをとった。

とりあえず、勝間さんや茂木さんなど有名人をフォローして、

つぶやきを読んでいた。

茂木さんの「しゅりんく!ぷれいりーどっぐくん、おはよう!」と

いうつぶやきを見ると、茂木さんもぼのぼの読んでたのかな?とか

そのひとの新たな一面を見ることができる。

つぶやきにも前向きのものや、後ろ向きのもの、があり、意味不明な

ものもほとんどだ。信憑性の怪しいものもある気はするが、ほとんどは、

その人がそのとき思ったリアルなつぶやきだと思う。

何かの宗教崇拝じみたつぶやきもある。

Twitter には、多様な人々の今があふれている。